NHK2・26事件 ●「英霊の聲」で、三島は2・26事件の青年将校たちと、特攻で死んでいった若い兵士たちの霊を登場させ、「われらは裏切られた者たちの霊だ」とまず名乗らせる


彼らは誰に裏切られたのか

それは昭和天皇、その人にである


青年将校たちは、天皇の取り巻き=君側の奸を排除するため、自ら「義軍」と信じて決起したのに、天皇に「叛乱軍」とされ、暗黒裁判で死を余儀なくされた


特攻の兵士たちは、敗戦濃厚な国を「救済」するために「神風を起こさんとして、命を国に献げた」のに、「神風」は吹かなかった


●三島は、青年将校が決起した時と、特攻隊の死後に日本が敗戦を迎えた時の「ただ二度だけ」は、昭和天皇に神でいてほしかったのだ


しかし、天皇が「人間であらせられ」たために、一度目(2・26事件)は「軍の魂」を、二度目(敗戦)は「国の魂」を失わせた、と三島は激しく憤る


そして「われらの死の不滅は瀆(けが)された」とまで書くのである


その狂おしいまでの憤怒の情のなかから、絞り出た言葉こそ、「などてすめらぎは人間(ひと)となりたまいし」だったのである


「英霊の聲」は小説というより、昭和天皇に対する恨みつらみを、とうとうと書き綴った三島の独白のような作品といっていい


●三島が、これほどまでに昭和天皇を憎む心の底には、そのアンビバレンツな情として天皇に対する限りない憧れがあった


大演習で、天皇旗のひらめく下、白馬に跨った天皇は「われらがその人にために死すべき現人神」であり、三島はその姿を「神は小さく、美しく、清らかに光っていた」と描写するのだ


こうした思いは、まさに「恋」そのものである

事実、彼は「(天皇に)恋して、恋して、恋して、恋狂いに恋し奉ればいいのだ」と書いているのである

「恋」の成就、すなわち「死」を捧げれば、天皇は「御喜納」し、それを受け入れてくれる


三島には間違いなく天皇は、忠誠を捧げた「臣民」を裏切らない、という確信があったのだろう

だからこそ、天皇の「裏切り」に信じられぬ思いを抱いたのではないだろうか


●「二・二六事件と私」のなかに、「二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだ」という部分がある


20歳で迎えた敗戦の時もまた「神の死の恐ろしい残酷な実感」がしたとし、それは11歳の時感じた「偉大な神が死んだ」という直感と密接につながっているらしい、と述べている


これは「ただ二度だけ」昭和天皇に「神」であってほしかった時に「人間」であったことの、三島の失望と呼応している


昭和天皇は「神」の座を降りた、三島にはそのことが「裏切り」と映ったのだ


「恋狂いに恋し」た天皇の「裏切り」を自覚した三島は、「2・26」を題材にした一連の作品(「十日の菊」「英霊の聲」「憂国」=二・二六事件三部作)を書く


それらは、昭和天皇に対する作家・三島のペンによる「叛乱」だったのだ


※写真は「NHKアーカイブス」より引用

http://www.nhk.or.jp/archives/program/back030720.htm

英霊の聲 きょう2月26日は、昭和11年(1936年)に起きた2・26事件からちょうど70年にあたる


三島由紀夫の「2・26」に関する考えは「英霊の聲」(河出文庫)所収の「二・二六事件と私」に端的に示されている


当時、11歳だった三島は「その不如意な年齢によって、事件から完全に拒まれていた


彼は「悲劇の起こった邸の庭の、一匹の仔犬のように」「ただ遠い血と硝煙の匂いに、感じ易い鼻をぴくつかせていた」だけなのだ 


しかし、それゆえに事件を「この世ならぬものに想像させ」、青年将校らを「異常に美しく空想させたのかもしれない」と語る


●私は、ここで三島が事件を「宴会」、青年将校らを「悲劇の客人」となぞらえていることに注目する


彼は「2・26」に、「悲劇の客人」たちが参い集う「血と硝煙」の「宴会」を「壮麗」に空想していたのである


三島にとって「2・26」とは、「この世ならぬもの」であり、決してリアルな事件ではなかった


それは、彼の思い描く憧れの世界を「夢想」させる歴史の中の舞台装置だったのだ


●「2・26」に夢中になった三島にさらに拍車をかけたのは、決起した青年将校の一人・磯部浅一大尉の「行動記」に記された蹶起の瞬間の描写である


その時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。いよいよ始まった。…勇躍する。歓喜する、感慨たとえにもなしだ。(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない、とに角言うに言えぬ程面白い。一度やって見るといい、余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものだろう。)


三島はこれを読んで、おそらく血湧き肉躍ったに違いない


●「人生至上のもの」を「2・26」の青年将校の姿に見た三島は「憂国」という「一篇の至福の物語」を書く


三島はこの物語で「事件から疎外されることによって自刀の道を選ぶほかはなくなる青年将校の側から描いた」


「憂国」の武山中尉夫妻は、最後の夜の性的結合によって「至上の肉体的快楽」を、自刀によって「至上の肉体的苦痛」とを貪ったのである


「2・26」から「疎外」された武山中尉に自分の姿を重ねた三島は、フィクションの世界では飽き足らず、その人生最後に本当の自刀を演ずることになる

回転扉の三島由紀夫 「回想 回転扉の三島由紀夫」(文春新書)は、劇作家・演出家の堂本正樹三島由紀夫との尋常ならざる交流を書いたものである

ここで「尋常ならざる」というのは、あくまでも私の感覚からしてということであり、堂本や三島にすれば当たり前の感覚であったかもしれない


●彼らの最初の出会いは戦後日本に初めて現れた銀座のゲイバーだという
十代の「美少年」だった堂本は、当時、新進気鋭の作家・三島と歌舞伎や能の話をしたことから親しくなった


二人は、ホモ・セクシアルの店に行き、「兄弟の席」で腕を組み、テーブルの上に足を組んだ靴を乗せ「尊大で、野卑で男らしい姿」を仲間に見せつける

これが「兄弟ごっこ」であり、堂本は三島の八歳下の「弟」となって三島のことを「兄貴」と呼ぶようになる


しかし、相手は「有名人」
堂本は、三島のプライドを傷つけないよう、話におかしいところがあっても問い詰めないし、都合の悪いことは聞かない
そういう「世間智」があったからこそ、三島と永く付き合えたという


三島も三島で、堂本に冷たい仕打ちをしたなと思ったときは、「耳元で、『正樹がいると心強いよ』と囁く」
「憎たらしい活殺自在」と書く堂本


二人の「駆け引き」は、まるで安っぽい恋愛映画だが、天才・三島の意外な側面を伝えてくれる


●しかし、この本で何よりも驚いたのは、三島に早くから「切腹」へのマニアックな憧れがあったということだ

もともと切腹に「一種官能的な興味を抱いていた」という堂本に、三島のフィーリングがぴったり合ったのかも知れない


三島が模造刀を用意し、「兄弟の儀式」として「切腹ごっこ」を始めるのだ

堂本によれば、三島はまだボディビルを始めていなかったころというから昭和30年代前半だろうと思う
上半身裸になった三島は、真剣な表情で腹をもみ、長刀を逆手にし、左腹に突き立て、引きもまわす
「ごっこ」というより、切腹する武士になりきっていたに違いない


その後、堂本の演出で三島が主人公の映画「憂国」を作ろうということになり、大仕掛けの能舞台で、血しぶきがどくどくと飛び散り、腹から腸が飛び出してくるようなグロテスクな切腹を表現した
堂本は「三島さんは切腹シュミレーションをしているのではないか」と思ったという


●昭和45年11月25日、その日
堂本は「全く思いもかけなかった。とも云えるし、全く自然の成り行きだともおもえた」と記した


果たしてその死の瞬間に三島は何を思ったのだろう

憧れの「切腹」は甘美なものだったのだろうか


∵…………………………………………………………………


三島由紀夫との赤裸々な同性愛を描いたという「三島由紀夫――剣と寒紅」(未読)を書いたことで知られる福島次郎が22日に亡くなった


ネットにある「心中・三島由紀夫、29年目の真実」という文章などを読むと、その衝撃的な内容に驚かされる
http://esashib.hp.infoseek.co.jp/mishima03.htm


福島は三島の遺族から訴えられ、敗訴したため、この本はいわゆる「発禁」となっているようだ
ところが、この本、ネットでは販売されていて、Amazonでも注文できるのだ
http://www.amazon.co.jp/gp/product/customer-reviews/4163176306/ref=cm_cr_dp_2_1/250-6781453-4854661?%5Fencoding=UTF8&s=books


たとえ、私が描いている三島のイメージが「木っ端微塵に吹き飛ば」されようとも、ぜひ読んでみたい


●(以下引用)………………………………………………………………


 福島次郎氏(ふくしま・じろう=作家)22日、すい臓がんで死去。76歳。告別式は24日午後2時、熊本市本荘6の2の9合掌殿島田斎場。自宅は同市萩原町7の47。喪主は妹、井村市子さん。

 1996年に「バスタオル」、99年に「蝶のかたみ」で芥川賞候補。98年に「文学界」に発表した小説「三島由紀夫――剣と寒紅」で、三島との交際を描き、話題を集めた。作中に引用した三島からの手紙が著作権侵害にあたるとして、三島の遺族が福島氏と文芸春秋などを相手に出版・販売差し止めなどを求めて提訴。2000年11月、最高裁で福島氏側の敗訴が確定した。

(2006年2月22日13時50分 読売新聞)


茨木のり子 詩人の茨木のり子が亡くなった (写真右)
その死を悼んで、21日付けの各紙のコラムでも取り上げている


産経抄によると、代表作「わたしが一番きれいだったとき」は、教科書にも掲載され、広く読み継がれてきたという

しかし、私にはこの詩を教科書で読んだ覚えがない
実をいうと今回、初めてじっくり読んだくらいなのだ

※写真は下記より引用

http://www.yu-hong.net/p04/p04-1988.html


■「わたしが一番きれいだったとき」、すなわち人生で一番輝いていたはずの青春時代に、世の中は戦争の真っ最中だった
「まわりの人達が沢山死んだ」から「おしゃれのきっかけ」もなくすし、「男たちは挙手の礼」をして「きれいな眼差だけ残し」戦場へ行ったのだ

だから「とてもふしあわせ」で「とんちんかん」で「めっぽうさびしかった」


だが、この詩は、単純な反戦の詩というわけでもない
なぜなら「わたし」は、そんな世の中に背を向けて「長生きすること」を決めたからだ

声高に戦争反対を叫ぶのではなく、自分と自分の世界を大切にすることにしたのだ

と、私なりに解釈してみたが、ネットで思わぬところに明快な解釈が書いてあるのを見つけた


■青森で発行されている「東奥日報」の昨年、8月15日の社説がそれ

社説の筆者は、戦後60年、日本を覆う「空漠感」「物寂しさ」にため息をつき、「確かな座標軸」の必要性を説く

その「手掛かりの一つ」として「わたしが一番きれいだったとき」の詩を挙げる


この若い女性のまなざしが意味したものは、自らを縛ってきた抑圧との決別、平穏な生活への願い、自立への強い意志」という
そして「そこには戦後の原点が鮮やかに刻まれている」と


「抑圧」から「自立」へ
なるほど、そう言われてみれば、この詩が訴えているのは、廃墟からたくましく立ち上がっていこうという人間の強い「意思」なんだなと思う


■しかし、この詩のエンディングはいったいなんだろう


だから決めた できれば長生きすることに
年をとってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように

                   ね


この、「に」「ね」がわからない
なにか、とても斬新で、おしゃれな感覚らしいことはわかる
しかし、技巧に走りすぎて、この部分の印象が強すぎるきらいもある


うーん、わからない


きっとのり子先生に

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
」と怒られそうだ


●(以下引用)………………………………………………………………
読売新聞「編集手帳」 (2006年2月21日)
車にファクス、ビデオデッキ、ワープロにパソコン、インターネット…と、つづく。「そんなに情報集めてどうするの/そんなに急いで何をするの/頭はからっぽのまま」◆茨木(いばらぎ)のり子さんは「時代おくれ」という詩のなかで、持ちたくないもの、触れたくないものを挙げて、もっともっと時代に遅れたいと書いた。「すぐに古びるがらくたは/我が山門に入るを許さず」と◆「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて」。こちらは「自分の感受性くらい」と題する一編である。気を緩めて読み進んだ人は、最後に不意の大目玉を食らう。「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」◆茨木さんの詩業は岬に立つ灯台のようだと、身を顧みてつくづく思う。いつの間にか“がらくた”の海を漂流し、乾いた心を世の中のせい、ひとのせいにしてぼやいている◆「ばかものよ、帰っておいで」。遠く瞬く灯台の明かりに、見失った陸地を教えられたことが幾度かあった。詩心なき身の哀(かな)しさで、救われてはまた懲りもせず物質文明の海に泳ぎ出ていくのだけれど◆ぴんと背筋の伸びた日本語の使い手で、「戦後現代詩の長女」とも評された茨木さんが79歳で死去した。詩集をひらき、心の海を照らしてくれた灯台の、凛(りん)とした光をしのぶ。


毎日新聞「余録」 (2006年2月21日)
 「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて/気難かしくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか」--茨木のり子さんの詩「自分の感受性くらい」だ▲いら立つのを近親のせいにするな、初心が消えるのを暮らしのせいにするな。そう畳みかけて詩はこう結んでいる。「駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄/自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」▲詩神ミューズは時に鬼の姿もとるらしい。茨木さんが初めて詩を投稿する際、ペンネームを考えているとラジオから長唄「茨木」が聞こえた。茨木童子という鬼が切り取られた片腕を渡辺綱から奪い返す話だ。「あ、これ」と、すぐにその名を頂戴(ちょうだい)した▲「『自分の物は自分の物である』という(鬼の)我執が、ひどく新鮮に、パッときたのは、滅私奉公しか知らなかった青春時代の反動かもしれない」。戦中戦後の混乱で失われた青春をいとおしむ初期の代表作「わたしが一番きれいだったとき」が生まれたのはその7年後だった▲吉本隆明さんは茨木さんを「言葉で書いているのではなく、人格で書いている」と評していた。ピンと伸びた背筋とか、人にこびぬ気品とかは、本来は人そのもののたたずまいのことだ。だが茨木さんの詩からは、常にそのような人とじかに向き合うような香気が立ちのぼっていた▲できあいの思想や権威によりかかりたくない--「ながく生きて心底学んだのはそれぐらい」。そう記す「倚(よ)りかからず」を表題にした詩集が異例のベストセラーになったのは7年前のことだ。いつも人々が見失った言葉を奪い返してきた女性詩人の自恃(じじ)の79年間だった。


産経新聞「産経抄 」 (2006年2月21日)
 茨木のり子さんが亡くなった、と聞いて著書を読み返している。七十九歳、戦後を代表する女性詩人だった。十九歳で敗戦を迎え、二十四歳から詩を書き始めた。戦争で失った青春をうたった「わたしが一番きれいだったとき」は教科書にも掲載され、広く読み継がれてきた。
 ▼ベストセラーとなった平成十一年の詩集「倚(よ)りかからず」や韓国現代詩の翻訳の仕事も評価が高いけれど、素人にはずっと昔、国語の授業で教わった詩の印象が一番強い。「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて」(「自分の感受性くらい」)
 ▼教師がどんな読解をしてくれたのか全く覚えていない。ただ「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と言い切る潔さに、言葉の周りを風が吹き渡るように感じた。背筋を伸ばし、声を励まして自分をしかる姿が浮かぶ。
 ▼この平易な言葉の連なりが、どうして忘れられないのだろう。茨木さんは「いつまでも忘れられない言葉は、美しい言葉である。二つは殆んど同義語のように私には感じられてならない」(「美しい言葉とは」)と書いている。
 ▼何がいいのか説明できないけれど、心をつかまれる。ふと触れて忘れられない…。がさつな言葉にまみれて暮らしていても、そんな経験はある。生涯かけて自分の言葉を追求する詩人の辛苦はどれほどか。
 ▼茨木さんの「刺繍と詩集」という作品は、書店で詩集の在りかを尋ねたら刺繍のコーナーに案内されたという話だ。二つの「ししゅう」はともに無用の長物だが、絶滅も不可能。たとえ禁止令が出ても「言葉で何かを刺しかがらんとする者を根だやしにもできないさ」。詩人が遺(のこ)した言葉に励まされる思いだ。


東奥日報社説 (2005年8月15日)
http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2005/sha20050815.html

戦後60年/この空漠感は何だろう


 「わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山死んだ/工場で 海で 名もない島で/わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった」

 (茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」より)

 昭和の敗戦の夏から六十年の歳月が流れた。終戦記念日のきょう、全国で追悼と祈りの催しがある。

 未曽有の惨禍をもたらした戦いと、その犠牲になった多くの人たちの無量の思いを、静かにかみしめる。

 そうした鎮魂の季節に、だが昨今は体を風が吹き抜けていくような思いも禁じ得ない。この見定め難い空漠感、物寂しさは何だろう。

 戦争の深い反省から、国と人々が積み重ねてきた戦後のさまざまな価値。それらは今や空洞化の域を越え、ひび割れたり、破片となって散乱しているようでもある。

 一方で新しい座標軸も見えていない。暮らしを元気づけ、安心と安全を守る。揺れ動く世界としっかり向き合う。そうしたシステムが現実に追いつけないでいる。

 戦後還暦という時間をぐるっとめぐれば、こんな行き惑う日本社会の現在が浮かび上がってくる。先に述べた空漠感も、そこにかかわる。

 きのうとあすをつなぐ確かな座標軸。現在が問われている根本のところだろう。戦争の記憶と向き合い、戦後に形づくられた価値を再検証することは、それゆえ一層重い意味を持つ。

 冒頭に掲げた詩も、そんな手掛かりの一つになる。一番きれいだった時に多くのものを失った「わたし」は、戦いに敗れた卑屈な町を、ブラウスの腕をまくりのし歩いた。そして長生きすることに決めた。

 この若い女性のまなざしが意味したものは、自らを縛ってきた抑圧との決別、平穏な生活への願い、自立への強い意志だろう。そこには戦後の原点が鮮やかに刻まれている。

 もう一つの手掛かりも考えてみたい。太宰治の短編小説「トカトントン」である。青森に生まれた「私」は軍隊で敗戦を迎え、玉音放送を聞いて死のうと思った。

 その時、兵舎の方からトカトントンという金づちの音がしてきた。「私」は悲壮も厳粛も一瞬に消えていくのを感じた。そんな場面が描かれている。

 太宰がここで言いたかったのは、日常の再発見ではなかろうか。集団的な情感にも流されない、その確かな場所。太宰は、そのように「軍国の幻影」をはぎ取った。

 あの戦争を考え、現在の課題にも照らし合わせてみる。手掛かりは、ほかにもたくさんあるだろう。身近な場所から、戦後の軌跡の追体験から、そうしたことを持続的にくみ上げていきたい。

 折しも、衆院が解散され、総選挙へと向かう政治の季節が重なった。内外に山積する当面の課題はむろん、戦後六十年の空間を見据えた俯瞰(ふかん)の視線も忘れたくない。

 過去に学びつつ、あすへの選択を模索していく。そのことが一層大事になっている、この夏ではないか。

連合赤軍の「あさま山荘事件」は今から34年前の1972年(昭和47年)のきょう、2月19日に発生、10日間にわたって警察と攻防戦を展開した

28日の警察の強行突入の際、警察官2人が殉職したが、人質の牟田泰子さんは無事救出された


事件の模様は連日テレビ中継され、当時、高校2年だった私は学校から帰ると、3学期の期末テストの勉強もそっちのけで、テレビにかじりついてそのナマの迫力ある画面に見入っていたものだ


佐々淳行「あさま山荘事件」 ■1■この攻防戦を警察サイドから書いたのが佐々淳行の「連合赤軍「あさま山荘」事件」(文春文庫)だ
この原作をもとに、2002年(平成14年)に役所広司が主演し「突入せよ!あさま山荘事件」というタイトルで映画化されている


佐々は警察官僚には珍しく柔軟な思考形式の人間なので、本の内容も堅苦しくなく、文章も洒脱で読みやすい

とくに警察庁・警視庁によって組織された指揮幕僚団と所轄の長野県警の幹部たちとの戯画的なやりとりは、「踊る大走査線」以上の面白さがある

しかし、死と直面した緊迫した状況の中で、時にノリすぎのジョークが頻出するので、この人は事件を楽しんでいるのではないか、とさえ思ってしまう


それでも突入を決定する前後の苦悩ぶりや、二人の警察官が殉職した場面、そして決死隊による真っ暗闇の山荘内での必死の人質救出の様子などは迫力たっぷりで読ませる


また、広報担当官でもあった佐々とマスコミとのやりとりも、もうひとつの攻防戦といえる
この人はマスコミの連中ともうまく付き合えるタイプのようで、犯人の一人の坂口弘の面割りに報道サイドから提供された写真をちゃかり使い、会見の場でいたずら好きの記者から「その写真はどこで撮ったのですか」と質問されるところなどが面白い


この写真を提供したのは、おそらく佐々と仲の良かったという読売安部誠一カメラマンらしい
ちなみに安部さんは、私の新人記者時代に、写真課(当時・中部読売新聞、現・読売新聞中部支社)の「親分」で、いろいろなことを教えてもらった写真の師匠である(すでにお亡くなりになっており、事件についてはあまり聞くことができなかったのが残念である)


久能「浅間山荘事件」 ■2■もうひとつ、マスコミサイドからこの事件を取り上げた本が当時日本テレビアナウンサーだった久能靖が書いた「浅間山荘事件の真実」(河出文庫)だ


事件はテレビが連日ナマ中継するという当時としては異例の展開を見せ、その後のテレビがリアルタイムで現場の様子を実況するという新たなメディアのあり方を全国民に見せつけた


久能の本では、当時、日本テレビが長野に系列局を持っていなかったため、中継回線を確保するのに苦労したことや、現地の寒さが厳しく、カメラのレンズが氷りつかないようカイロで温めるなど苦心したことなどが書かれている


しかし、久能は、突入当日、同僚のアナウンサーらとともに9時間にわたって現地の実況を担当し、犯人確保の第一報を他のメディアに先駆けて伝えることができた


ただ、「絵」の方は、フジテレビにしてやられた
通称「曳き回し」と呼ばれる犯人連行の様子をフジが白黒の小型カメラでしっかり捉えていたのだ
当時、カラー化が始まったばかりで、カラーカメラは大型のものしかなく、現場での対応が遅れたのが原因だった


日本テレビでは「画像では負けたが、音声では勝った」と総括したが、「絵」で勝たなければ意味がないだけに、久能の悔しさがうかがえる


また、当時は現場からのレポートはアナウンサーが伝えていたが、その後、現場で取材した記者が自らの言葉で伝えるという形に変わるきっかけとなったのもこの事件だ
現に、久能自身、その後アナウンサーを辞め、報道局に移り、記者となっている


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あれから34年、すでに事件は風化しつつあるが、私自身の中では今でもあのテレビ中継に熱中したことをいまでも生き生きと思い出す
私がマスコミの世界を志すきっかけとなった忘れられない事件だからである

啄木 今朝の読売「編集手帳」を読んで、石川啄木が2月20日で生誕120年を迎えることを知った


若き日、岩波文庫の啄木歌集をまるでバイブルのように手元に置き、本のページがよれよれになるほど何度も読み返していたことを思い出す

数ある啄木の歌の中で、今でも心にびんびんと響くのがこれだ
 
 こころよく
 我にはたらく仕事あれ
 それを仕遂げて
 死なむと思ふ 
(「一握の砂」)


私は以前、新聞記者だった

19年間、読売新聞社に勤めていた


新聞記者は私の天職であり、「こころよく我にはたらく仕事」であった
しかし、事情があって新聞記者を辞め、いまは別の人生を歩んでいる


新聞記者として真っ直ぐに歩んでいる一人に毎日新聞の牧太郎がいる

彼は脳卒中で身体が不自由になっても、死ぬまで新聞記者でありたいと願い、「新聞記者で死にたい」(中公新書)という強烈なタイトルの本を書いた


私も、心の中では常に読売の記者であり続けたい

いつか死ぬのであれば、かつて新聞記者だった誇りと気概を持って死んでいきたい


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啄木の歌で、新聞社を題材にしたものがある


 京橋の滝山町の
 新聞社
 灯ともる頃のいそがしさかな
(「一握の砂」)


この歌には一時、朝日新聞の校正係だった啄木の、新聞社で働く素直な喜びがあふれている


一日が終わり、周囲のビルからサラリーマンが帰り始める頃、新聞社の編集局だけは明るく輝き、活気に満ち溢れている
「こころよく我にはたらく仕事」に取り組んでいる啄木の様子が目に浮かぶ


そして、そこには若き日の私の姿も見えている


●(以下引用)………………………………………………………………
2月17日付・編集手帳
 生計の窮迫した石川啄木は郷里の岩手県渋民村を引き払い、職を求めて北海道に渡った。母親は他家に身を寄せ、妻子は盛岡市に移り住んだ。21歳の春である◆日記の記述がいかにも啄木らしい。「啄木、渋民村大字渋民十三地割二十四番地に留(とど)まること一か年二か月なりき、と後の史家は書くならむ」。一家離散の憂き目に遭いつつ、昂然(こうぜん)と胸を張っている◆裸の心は歌のなかにあるのだろう。「わが去れる後の噂(うわさ)を/おもひやる旅出はかなし/死ににゆくごと」。鼻っ柱の強い自信家が吐息のようにもらすつぶやきは、いまも読む人の胸を揺さぶってやまない◆生まれたのは1886年(明治19年)の2月20日、今年は生誕120年にあたる。生を受けた季節の花、梅を詠んだ歌がある。「ひと晩に咲かせてみむと/梅の鉢を火に焙(あぶ)りしが/咲かざりしかな」◆時節を待てば花はひらくものを、火に焙ってでも早く咲かせねばならない…。実体験か、空想の産物か、おのが命の短さを知る人の焦燥を痛いほど伝えて、余すところがない◆薬代も払えない貧窮のなかで世を去るのは一家離散の日記から5年後、26歳の時である。「死して後(のち)世に知られたる啄木を嬉(うれ)しとぞ思ふ悲しとぞ思ふ」(与謝野鉄幹)。はかなく消えて、残像はいつまでも美しい。夜空の流れ星のような生涯だった。

野口氏 ライブドア事件で野口英昭氏が沖縄のカプセルホテルで「自殺」したとされている事件を巡り、彼は何者かに殺されたのではないかという憶測があちこちに出ている


※野口氏の顔写真はhttp://critic2.exblog.jp/ より引用


ネットを見ていたら、lelele氏が主宰するブログ「双風亭日乗」で、日本には殺人を自殺にさせてしまう見えないシステムがあるという趣旨のことを書かれているhttp://d.hatena.ne.jp/lelele/20060209


ある見えないシステムに入り込むと、かなり簡単に自殺だと見せかけて殺すことができる。そんなとんでもないシステムが、日本にはあるのかもしれませんね。誰かがAさんを殺す。しかし、殺したのではなく、自殺したように偽装する」(「双風亭日乗」より引用)


たまたま読んだばかりの松本清張けものみち」でも、同様に殺人を自殺にするシステムがあることをうかがわせる話が書かれている


政財界の黒幕・鬼頭によって刑事を失職した久恒が、鬼頭への復讐のためその犯罪を暴露しようとして周辺を嗅ぎ回る
しかし、鬼頭の配下に殺され、自殺に偽装させられてしまうのだ


久恒は水死体として発見されたが、外傷はなく、検死では「溺死」とされた

捜査一課の名刺を持っていたことから、地元署は本庁に報告するが、本庁はそちらで判断せよ、とそっけない返事


結局、地元署では久恒が刑事をクビになり、それを「悲観」して自殺したのだろうと「きわめて常識的な結論」を出す
マスコミにも発表されず、哀れな元刑事の死の真相は闇から闇へと葬り去られたのだ


過去にも、政財界を巡る汚職事件などでは必ずといっていいほど、自殺者が出ていた
誰しもがその死に不可解さを感じながらも、真相は明らかにされないまま、やがて事件そのものが風化していく


この国の恐ろしい暗部に震撼せざるをえない

文藝春秋 芥川賞が決まった直後の文藝春秋を買うのをとても楽しみにしている
受賞作品が全文掲載され、選考委員の選評も載っているからだ

■1■今回、第134回の受賞作・絲山秋子沖で待つ」も、期待しながら読んでみた

驚いた

なんだ、これ
なにやら、女性総合職の「私」なる主人公が、同期の男性の「太っちゃん」と会社で「仕事ごっこ」をしながら、小学生か中学生並みの「男女交際」の様子を描いた馬鹿馬鹿しい話でしかない


二人は、どちらか先に死んだらパソコンのハードディスクを壊して、「秘密」を他人に知られないようにし合おうという「約束」をする

ところが「太っちゃん」は飛び降り自殺の巻き添えで突然死

「私」は事前の取り決め通り「太っちゃん」の自宅に忍び込み、ハードディスクを壊して「約束」を果たす


実は「太っちゃん」は「私」への思いを綴った「沖で待つ」という小学生並みのポエムを残しており、「私」は「参ったな」としか思い浮かばない


底の浅い男女の関係、最後の「太っちゃん」の幽霊との会話など噴飯ものだ


■2■何人かの選考委員はこの作品を高く評価しているが、何故だろう


まずこの作品で描かれている男女関係について、山田詠美は「友人でもなく、恋人でもなく、同僚。その関係に横たわる茫漠とした空気を正確に描くことに成功している」という


黒井千次なども「女と男の新しい光景」が描かれ、「一見遠ざけられた性の谺(こだま)が微かに響き返して来るところにも味わいがある」という


これだけでも、おいおい、ホントかよって思うのに、池澤夏樹にいたってはハードディスクを壊してくれと頼むのは「死生観を共にしているという思いの表明」とまで書いており、なにもそこまで深読みしなくてもと思ってしまう


仕事の記述についても、河野多恵子などは「職業(生活の資を得るための仕事)を見事に描いた小説」とベタ誉めだし、宮本輝は「何年も実社会でもまれた人しか持ち得ない目が随所に光っている」という


河野も宮本も実際に会社勤めをしてサラリーを得た経験があるのだろうか
少なくとも私の経験からしてみれば、現実の職場はこの作品に描かれているような甘いところではない


絲山の経歴を見ると、確かに大学卒業後、2年ほど住宅設備機器メーカーで働いたことがあるようだが、おそらくこの人は本当の職場の「地獄」を見たことがないのだろう


結局、この小説には石原慎太郎が書いているように、我々の心を「戦慄」させるものが全くないのだ
失望」の一語に尽きる作品であった

けものみち上 けものみち下 面白かった
しかし、読後感は重かった


この作品は、運命の糸に導かれて「けものみち」に迷い込んでしまった人間たちが、最後には日本社会の裏でうごめく「けもの」たちに、まさに文字通り「食われて」しまう恐怖の物語である


けものみちTV われわれの社会とは、かくも恐ろしさに満ちたものなのか

そんな社会で生き抜いていかなければならない人間たちのなんと悲しく哀れなことよ


■1■まず主人公の民子、彼女は、ある意味で同情すべき人間である


脳軟化症の夫を支えるために、いかがわしい旅館の住み込みの女中として働くことを余儀なくされている
夫は自分こそ介護の女中と関係しているくせに、民子が他の男と浮気していると邪推、しまいには精神の異常をきたしてしまう


あのまま何年生きることであろうか。寛次が生きる限り、彼女は自由になることができない
このまま寛次を背負っていると、自分までがずるずると泥濘の中におぼれそうだった

民子の深い嘆きは、同様な状況の中にいる私に、きりきりと響く


たまたま夫婦という名で結合された男女関係の不幸を死ぬまでひきずらなければならないものだろうか」という民子の悲痛な叫びをだれが否定することができようか


民子は「自由」を得るために、夫を殺し、「けものみち」に迷い込んだのだ


当初、民子は「けもの」の総帥である鬼頭老人の「めかけ」となり、「けものみち」をうまく歩み始めたように見えたが、老人の死によってその庇護を失ってしまう


彼女は、自分を「けものみち」に引きずり込んだ小滝を頼るが、最終的には裏切られ、哀れな最後を迎える


「裏切り」と「死」、まさに「けものみち」は「けもの」たちの弱肉強食の世界なのだ


※写真は、テレビ朝日「けものみち」HPより引用

http://www.tv-asahi.co.jp/kemonomichi/


■2■この作品のもう一人の主人公が久恒である
彼は、ノンキャリの現場たたき上げの職人肌の刑事として描かれる


民子の夫殺しについて、しつこいまでの独自捜査で彼女を追い詰めていくが、久恒もまた、あるきっかけで「けものみち」に迷い込む


民子を「女」として「欲しくなった」こと、それである
安月給に女房のヒス、そして知能の発達が遅れた子供、そんな「暗い穴ぐらのような家庭」から彼は抜け出したかったのだ


夫殺しの嫌疑と引き換えに民子に迫った久恒は激しく拒まれ、民子から報告を受けた鬼頭老人の隠然たる力により、彼は刑事の職を失職する


権力を失った人間は哀れである
地方の警察署へ行って本庁風をふかすことのできた久恒も、今度はその建物に入ることさえ「臆病」になり「気持ちがすくむ」のだ


権力の象徴であり、万能の切札であった」警察手帳も今はない
今の彼は一介の市井人になり下がっていた。もはや市民のだれも久恒を恐れないし、誰も畏敬しない
飲み屋も彼に対する愛想笑いを消し、酒一合でも代金を要求するであろう


久恒は鬼頭に復讐しようと単身「捜査」を続けるが、「焦りと油断」ゆえに「けもの」たちに消されてしまうのだ


■3■松本清張はこの作品で日本の暗部に巣食う「けもの」たちの実態を描こうとした


しかし、ここで注意すべき点は、「けもの」たちの世界が実は決して盤石(ばんじゃく)なものではないことだ

ある大ボスがいて君臨していたいたとしても、その力が衰えれば別の大ボスがその地位を奪い取る


ここで日本の黒幕として描かれた鬼頭は、生きているうちは、その屋敷に政財界のお偉方がひきも切らずに押しかけていた
警視庁の幹部すらもご機嫌伺いにはせ参じるくらいだから、鬼頭の一声で久恒をクビにすることもできた


しかし、鬼頭の死によって闇の勢力地図は一晩で変わり、鬼頭の腹心の部下だった秦野が鬼頭の通夜に殺されるという、衝撃的な事件まで起きてしまう


民子を裏切った小滝にしても、さらに鬼頭の手下の黒谷を裏切り、民子とともに葬りさる

炎に包まれた2人をあとにして、小滝が「哄笑」する場面で小説は終わるが、この小滝さえ明日はどうなる身かわからないのだ


「けものみち」が弱肉強食の世界である所以(ゆえん)である


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久恒が最初に民子に接近し、夫殺しについて疑いの言葉を投げかける場面で、松本清張は久恒に下っ端刑事の本音めいたことを言わせている


弱い者を一人や二人牢屋にぶち込んだところで、いったい、何になるんだろうという疑問が起こってくる。ほんとに善良な者がやむにやまれぬ事情で犯罪を犯す、それで一生を棒に振る


一方では法の網を潜って金持ちはいよいよ肥ってゆく。また、知能犯や凶悪犯は罪の意識がなく、何度も悪いことを重ねる。こんな連中と同じような法律で縛るのは理屈に合わないと思ってきたよ


これは、もう松本清張の言葉そのものである


善良な人間はやむにやまれぬ事情で犯罪を犯すことがある

しかし、本当のワルは法の網をかい潜り、容易にシッポを出さない

そんな矛盾した社会への異議申し立てである


社会派・清張の気概が伝わってくる文章である


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現在、放映中のテレビの「けものみち」は原作をベースにしているものの、ずいぶん現代風にアレンジしているようだ

あまり見る気はしない


主人公・民子の米倉涼子と小滝の佐藤浩市は原作とイメージが合うが、鬼頭の平幹二朗とか秦野の吹越満(知らない俳優さんだな)あたりがどうもイメージに合わない、それに米子の若村麻由美も


やっぱり松本清張の原作をじっくり楽しんだほうがいい!

週刊新潮 今朝の日経「春秋」が面白い
スキャンダル報道もいとわぬ独特の週刊誌ジャーナリズムを打ち立てた週刊新潮にエールを送っている

現在の週刊新潮のスタイルを演出した編集者の斎藤十一は、編集の根底に、人間の「金銭欲、色欲、権力欲」をおいたという


図星だな
どれほど奇麗事を並べても、人間の本質にはこの三つの欲がつきまとうものだ

欲と欲が絡み合い、ぶつかり合いながらこの世の中はできている


そんな中で生きている、ありのままの人間の姿を覗き見たい、という欲求が誰にもある

その欲求こそが週刊誌ジャーナリズムを支えているのだと思う


春秋の筆者は、自ら所属する新聞メディアを「活字ジャーナリズムの本流」であるとプライドをみせているが、「新聞がよりどころとする社会正義や良識なるものに偽善や説教臭をかぎ取ることはしばしば」と、あえなく新聞の弱点を認めてしまっている


何の刺激もないジャーナリズムよりも、多少とも毒っ気があるジャーナリズムの方が大衆には好まれる


なぜなら、毒がある方がより人間の真実をえぐりだすからであり、大衆はそこに自分自身の知らぬもう一人の自分を見ることができるからだ


●(以下引用)………………………………………………………………
春秋(2/10)
 「金銭欲、色欲、権力欲の三つに興味のない人間はいない。だからこの三つを扱った週刊誌を作る」。そう言って、巨怪とも呼ばれた編集者斎藤十一氏が「骨格を定め」「企画、編集を取り仕切った」(『新潮社100年』)のが週刊新潮だ。

▼週刊誌に必要な取材・執筆陣、販売網、印刷能力の、どれもなかった出版社が初めて挑む事業なので、当初、文芸中心になったのは仕方ない。新聞広告の惹句(じゃっく)も「サラリーマンの読書と生活に」だった。「世の通念の裏を探ってスキャンダル報道もあえて行う“新潮ジャーナリズム”に舵(かじ)を切る」のは1975年ころと、社史は位置づける。

▼「僕は俗物だ」「人権よりもっと大事なものがある」「知る権利より知る興味」と、毒ある個性的な語録を残した編集者の感性は、活字ジャーナリズムの本流である新聞がよりどころにする社会正義や良識に、偽善や説教臭をかぎ取ることしばしばで、揶揄(やゆ)・批判を新聞は度々浴びせられる。

▼斎藤氏は後輩の編集者に「俺(おれ)は週刊誌で文学をやっている」と話したそうだ。人間と人生を探求する意味か。そんな、新聞と行き方が違うジャーナリズムを開拓し、多数の出版社系週刊誌を後に続かせた、この雑誌の創刊から今月で50年になる。世相を描く週刊誌の変遷に、半世紀の日本社会の移り変わりを思う。