詩人の茨木のり子が亡くなった (写真右)
その死を悼んで、21日付けの各紙のコラムでも取り上げている
産経抄によると、代表作「わたしが一番きれいだったとき」は、教科書にも掲載され、広く読み継がれてきたという
しかし、私にはこの詩を教科書で読んだ覚えがない
実をいうと今回、初めてじっくり読んだくらいなのだ
※写真は下記より引用
http://www.yu-hong.net/p04/p04-1988.html
■「わたしが一番きれいだったとき」、すなわち人生で一番輝いていたはずの青春時代に、世の中は戦争の真っ最中だった
「まわりの人達が沢山死んだ」から「おしゃれのきっかけ」もなくすし、「男たちは挙手の礼」をして「きれいな眼差だけ残し」戦場へ行ったのだ
だから「とてもふしあわせ」で「とんちんかん」で「めっぽうさびしかった」
だが、この詩は、単純な反戦の詩というわけでもない
なぜなら「わたし」は、そんな世の中に背を向けて「長生きすること」を決めたからだ
声高に戦争反対を叫ぶのではなく、自分と自分の世界を大切にすることにしたのだ
と、私なりに解釈してみたが、ネットで思わぬところに明快な解釈が書いてあるのを見つけた
■青森で発行されている「東奥日報」の昨年、8月15日の社説がそれ
社説の筆者は、戦後60年、日本を覆う「空漠感」「物寂しさ」にため息をつき、「確かな座標軸」の必要性を説く
その「手掛かりの一つ」として「わたしが一番きれいだったとき」の詩を挙げる
「この若い女性のまなざしが意味したものは、自らを縛ってきた抑圧との決別、平穏な生活への願い、自立への強い意志」という
そして「そこには戦後の原点が鮮やかに刻まれている」と
「抑圧」から「自立」へ
なるほど、そう言われてみれば、この詩が訴えているのは、廃墟からたくましく立ち上がっていこうという人間の強い「意思」なんだなと思う
■しかし、この詩のエンディングはいったいなんだろう
だから決めた できれば長生きすることに
年をとってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
この、「に」「ね」がわからない
なにか、とても斬新で、おしゃれな感覚らしいことはわかる
しかし、技巧に走りすぎて、この部分の印象が強すぎるきらいもある
うーん、わからない
きっとのり子先生に
「自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ」と怒られそうだ
●(以下引用)………………………………………………………………
★ 読売新聞「編集手帳」 (2006年2月21日)
車にファクス、ビデオデッキ、ワープロにパソコン、インターネット…と、つづく。「そんなに情報集めてどうするの/そんなに急いで何をするの/頭はからっぽのまま」◆茨木(いばらぎ)のり子さんは「時代おくれ」という詩のなかで、持ちたくないもの、触れたくないものを挙げて、もっともっと時代に遅れたいと書いた。「すぐに古びるがらくたは/我が山門に入るを許さず」と◆「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて」。こちらは「自分の感受性くらい」と題する一編である。気を緩めて読み進んだ人は、最後に不意の大目玉を食らう。「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」◆茨木さんの詩業は岬に立つ灯台のようだと、身を顧みてつくづく思う。いつの間にか“がらくた”の海を漂流し、乾いた心を世の中のせい、ひとのせいにしてぼやいている◆「ばかものよ、帰っておいで」。遠く瞬く灯台の明かりに、見失った陸地を教えられたことが幾度かあった。詩心なき身の哀(かな)しさで、救われてはまた懲りもせず物質文明の海に泳ぎ出ていくのだけれど◆ぴんと背筋の伸びた日本語の使い手で、「戦後現代詩の長女」とも評された茨木さんが79歳で死去した。詩集をひらき、心の海を照らしてくれた灯台の、凛(りん)とした光をしのぶ。
★毎日新聞「余録」 (2006年2月21日)
「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて/気難かしくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか」--茨木のり子さんの詩「自分の感受性くらい」だ▲いら立つのを近親のせいにするな、初心が消えるのを暮らしのせいにするな。そう畳みかけて詩はこう結んでいる。「駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄/自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」▲詩神ミューズは時に鬼の姿もとるらしい。茨木さんが初めて詩を投稿する際、ペンネームを考えているとラジオから長唄「茨木」が聞こえた。茨木童子という鬼が切り取られた片腕を渡辺綱から奪い返す話だ。「あ、これ」と、すぐにその名を頂戴(ちょうだい)した▲「『自分の物は自分の物である』という(鬼の)我執が、ひどく新鮮に、パッときたのは、滅私奉公しか知らなかった青春時代の反動かもしれない」。戦中戦後の混乱で失われた青春をいとおしむ初期の代表作「わたしが一番きれいだったとき」が生まれたのはその7年後だった▲吉本隆明さんは茨木さんを「言葉で書いているのではなく、人格で書いている」と評していた。ピンと伸びた背筋とか、人にこびぬ気品とかは、本来は人そのもののたたずまいのことだ。だが茨木さんの詩からは、常にそのような人とじかに向き合うような香気が立ちのぼっていた▲できあいの思想や権威によりかかりたくない--「ながく生きて心底学んだのはそれぐらい」。そう記す「倚(よ)りかからず」を表題にした詩集が異例のベストセラーになったのは7年前のことだ。いつも人々が見失った言葉を奪い返してきた女性詩人の自恃(じじ)の79年間だった。
★産経新聞「産経抄 」 (2006年2月21日)
茨木のり子さんが亡くなった、と聞いて著書を読み返している。七十九歳、戦後を代表する女性詩人だった。十九歳で敗戦を迎え、二十四歳から詩を書き始めた。戦争で失った青春をうたった「わたしが一番きれいだったとき」は教科書にも掲載され、広く読み継がれてきた。
▼ベストセラーとなった平成十一年の詩集「倚(よ)りかからず」や韓国現代詩の翻訳の仕事も評価が高いけれど、素人にはずっと昔、国語の授業で教わった詩の印象が一番強い。「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて」(「自分の感受性くらい」)
▼教師がどんな読解をしてくれたのか全く覚えていない。ただ「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と言い切る潔さに、言葉の周りを風が吹き渡るように感じた。背筋を伸ばし、声を励まして自分をしかる姿が浮かぶ。
▼この平易な言葉の連なりが、どうして忘れられないのだろう。茨木さんは「いつまでも忘れられない言葉は、美しい言葉である。二つは殆んど同義語のように私には感じられてならない」(「美しい言葉とは」)と書いている。
▼何がいいのか説明できないけれど、心をつかまれる。ふと触れて忘れられない…。がさつな言葉にまみれて暮らしていても、そんな経験はある。生涯かけて自分の言葉を追求する詩人の辛苦はどれほどか。
▼茨木さんの「刺繍と詩集」という作品は、書店で詩集の在りかを尋ねたら刺繍のコーナーに案内されたという話だ。二つの「ししゅう」はともに無用の長物だが、絶滅も不可能。たとえ禁止令が出ても「言葉で何かを刺しかがらんとする者を根だやしにもできないさ」。詩人が遺(のこ)した言葉に励まされる思いだ。
★東奥日報社説 (2005年8月15日)
http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2005/sha20050815.html
戦後60年/この空漠感は何だろう
「わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山死んだ/工場で 海で 名もない島で/わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった」
(茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」より)
昭和の敗戦の夏から六十年の歳月が流れた。終戦記念日のきょう、全国で追悼と祈りの催しがある。
未曽有の惨禍をもたらした戦いと、その犠牲になった多くの人たちの無量の思いを、静かにかみしめる。
そうした鎮魂の季節に、だが昨今は体を風が吹き抜けていくような思いも禁じ得ない。この見定め難い空漠感、物寂しさは何だろう。
戦争の深い反省から、国と人々が積み重ねてきた戦後のさまざまな価値。それらは今や空洞化の域を越え、ひび割れたり、破片となって散乱しているようでもある。
一方で新しい座標軸も見えていない。暮らしを元気づけ、安心と安全を守る。揺れ動く世界としっかり向き合う。そうしたシステムが現実に追いつけないでいる。
戦後還暦という時間をぐるっとめぐれば、こんな行き惑う日本社会の現在が浮かび上がってくる。先に述べた空漠感も、そこにかかわる。
きのうとあすをつなぐ確かな座標軸。現在が問われている根本のところだろう。戦争の記憶と向き合い、戦後に形づくられた価値を再検証することは、それゆえ一層重い意味を持つ。
冒頭に掲げた詩も、そんな手掛かりの一つになる。一番きれいだった時に多くのものを失った「わたし」は、戦いに敗れた卑屈な町を、ブラウスの腕をまくりのし歩いた。そして長生きすることに決めた。
この若い女性のまなざしが意味したものは、自らを縛ってきた抑圧との決別、平穏な生活への願い、自立への強い意志だろう。そこには戦後の原点が鮮やかに刻まれている。
もう一つの手掛かりも考えてみたい。太宰治の短編小説「トカトントン」である。青森に生まれた「私」は軍隊で敗戦を迎え、玉音放送を聞いて死のうと思った。
その時、兵舎の方からトカトントンという金づちの音がしてきた。「私」は悲壮も厳粛も一瞬に消えていくのを感じた。そんな場面が描かれている。
太宰がここで言いたかったのは、日常の再発見ではなかろうか。集団的な情感にも流されない、その確かな場所。太宰は、そのように「軍国の幻影」をはぎ取った。
あの戦争を考え、現在の課題にも照らし合わせてみる。手掛かりは、ほかにもたくさんあるだろう。身近な場所から、戦後の軌跡の追体験から、そうしたことを持続的にくみ上げていきたい。
折しも、衆院が解散され、総選挙へと向かう政治の季節が重なった。内外に山積する当面の課題はむろん、戦後六十年の空間を見据えた俯瞰(ふかん)の視線も忘れたくない。
過去に学びつつ、あすへの選択を模索していく。そのことが一層大事になっている、この夏ではないか。