NewA 朝日「天声人語」の前コラムニスト・小池民男さんが25日に亡くなられた

訃報記事を読んでいたら、「天声人語」最後の執筆では、桐野夏生を取り上げ、「『悪』を冷ややかな情熱を込めて描く彼女の作品もポーの世界につながっている」と書いていたという


全文を読んでいないのでなんともいえないが、学芸部が長かったという小池さんがキリノを高く評価していたことは間違いない


「『悪』を冷ややかな視線で描く」

まさにキリノ作品の本質を突いている


それにしても、意外なところでキリノの名前が出てきたので驚いた


●(以下引用)………………………………………………………………

本社コラムニストの小池民男さん死去(2006年04月25日19時27分)
 朝日新聞のコラム「天声人語」を3年間執筆した本社コラムニストの小池民男(こいけ・たみお)さんが25日午前4時33分、食道がんのため東京都内の病院で死去した。59歳だった。故人の遺志で葬儀は行わない。お別れの会を後日開く予定。連絡先は東京都中央区築地5の3の2の朝日新聞社広報部(03・5540・7615)。

 朝日新聞社に入社後、学芸部次長などを経て、91年に論説委員。夕刊のコラム「素粒子」の担当後、01年4月から「天声人語」を書いた。文学的な素養を生かしながら、9・11の同時多発テロ後の世界と日本のあり方を数多く論じた。04年3月31日に、作家のエドガー・アラン・ポーと桐野夏生さんを取り上げ、「『悪』を冷ややかな情熱を込めて描く彼女の作品もポーの世界につながっている」と結び、現在の筆者に引き継いだ。

 05年4月から署名コラム「時の墓碑銘(エピタフ)」を毎週連載、現代史の中で発せられた言葉やせりふを訪ね歩いた。今年初めに入院してからも病床で執筆し、4月3日の「権力は腐敗する 弱さもまた腐敗する エリック・ホッファー」が最後の作品となった。

★「天声人語」(2006年04月26日付)
 白昼なのに、暗い闇があたりを包み、雷鳴がとどろく。雨が若葉をたたいてしたたり落ちた。昨日、東京都心では、一時嵐の様相となった。この明け方、築地の国立がんセンターで、ひとりの記者が力尽きた。

 身内のことを記すのをお許しいただきたい。「天声人語」の前の筆者だった小池民男さんである。昨春からコラム「時の墓碑銘(エピタフ)」を連載し、食道がんで倒れた後も病床で執筆した。

 以前に見舞った時は、ベッドの上にパソコンを置き「来週あたりはサンテグジュペリにしようかと思う」と言った。「最近は、むしろ前よりいい回もあるようですね」などと軽口をたたくと、言葉をのみこむようにして笑顔を浮かべた。最後の回となった今月3日の「エリック・ホッファー」まで、筆に乱れは無かった。

 学芸部の記者が長かったが、政治や事件、科学、スポーツなどにも独自のものさしを持っていた。知識が豊かというだけではなく、気のいいところも持ち味の一つだった。

 寺山修司が好きで、ある年の命日には『われに五月を』の序詞をコラムに引用している。「きらめく季節に/たれがあの帆を歌ったか/つかのまの僕に/過ぎてゆく時よ」。その季節を前にして逝った。享年59歳。つかの間に過ぎた時というほど、短くはない。仕事場以外では、常に傍らに酒とたばこがあった。それなりの修羅も、あったことだろう。

 コラムに限らず、新聞記者の仕事の一つは、人と時代の営みから「時の肖像」を描くことだ。小池さんは、最後まで力を振り絞って、その姿を追い続けた。

日経村上春樹 ●今朝、日経を読んでいたら、2面の左側に7段ハコ組みで大きく載っていた「村上春樹現象をどう読む」という記事に目が引き寄せられた


伊那久喜編集委員による「風見鶏」というコラムだが、政治や経済のおカタい記事の中にある「村上春樹」という文字は、ひときわ浮かび上がって見えた


●記事によると、いまやハルキの作品は、世界30ヶ国語以上に翻訳され、「世界の西と東にまたがることのできた初の日本人作家」という


10月に受賞が決まっているカフカ賞にも触れられており、一昨年、昨年とこの賞を受けた作家がノーベル文学賞を受賞していることから、「村上氏も、10月時点ではノーベル賞が決まっている可能性がある」と、ハルキファンにはドキドキするような一節まである


●ハルキがなぜ世界中で支持されるのか


記事では(作品世界が)「無国籍に見えても舞台背景の多くは日本であり、近年の『クール・ジャパン(日本は格好いい)現象』に通じるように見える」としている


●だが、さすが日経の記事である

ノルウェイの森」の主人公が最後の部分で「僕は今どこにいるのだ」と自問していることを例に挙げ、ハルキ現象の本質は、世界中の人々が自分たちの座標軸を捜し求めていることにシンクロしているのだ、と鋭く指摘する


それは、個々の人間だけではない

企業や政党などのさまざまな「組織」や、世界中の「国家」も同様であるという


●なるほど、混迷の時代にふさわしいハルキの作品は世界が求めているのだ


村上春樹にノーベル文学賞!

今秋、このビッグサプライズのニュースが世界中に流れるかも知れない

三島由紀夫とは ●今朝の日経コラム・春秋に、清張が三島を「嫌ったことは甚だし」かったという話が出ていた清張は三島の自決について「『才能が枯渇したから』と断じた」という

そこで思い出したのが橋本治の「『三島由紀夫』とはなんだったのか」(新潮文庫)
この本で橋本は、三島が清張のことを「拒絶」していたと書いている


中央公論社が「日本の文学」という全集に清張の一巻を入れることを編集員だった三島が「絶対にだめ!」と厳しく拒否したのだという
あれほど嫌いだった太宰治を全集に入れることは認めたのに、である


●橋本はこれを三島が清張に対する「劣等感」(橋本はこの言葉を使っているわけではないが…)をいだいていたのではないかと推定している


金閣寺」「青の時代」「宴のあと」など三島は一時期、「現実の事件を題材」にしていた


清張もまた「現実の事件を題材」にしており、出発点は同じである


●しかし、清張が「真実はこうだ」と展開するのに対して、三島は「現実の事件を逆立ちさせて完全に『自分の世界』を幻出させてしまう作家」なのだと橋本はいう


三島の側から見れば、清張は「大人の小説」であり、自分の小説は「子供のようなこじつけ小説」に見えてしまうのではないか、というわけだ


橋本は、フィクションを描き続ける三島の中に「原初の不安」があるのではないか、と見ている


●清張は三島を「嫌った」、三島は清張を「拒絶した


そして、私は、清張、三島いずれもが好きなのである


これからも両者のベクトルの違いを楽しみながら読んでいきたいと思う


●(以下引用)………………………………………………………………

春秋(4/13)
 松本清張が純文学作家、中でも三島由紀夫を嫌ったことは甚だしく、割腹自殺も「才能が枯渇したから」と断じた。『追憶の作家たち』(宮田毬栄著)のそんなくだりを読むと、清張の純文学嫌悪は文学観よりも、エリートたちへの反発に根ざすようにも思える。

▼殺人のぬれぎぬを着た兄の弁護を頼みに、九州から東京まで来た若い女の懇願をエリート弁護士は「弁護料の高い僕にお頼みになる必要はない」と断る。女は弁護士に深い恨みを抱き、やがて……という復讐譚(ふくしゅうたん)『霧の旗』では、清張は、日本の司法を、エリートが構成し支配する世界と見、反感をあらわにしている。

▼司法支援センター、愛称法テラスと呼ぶ組織が今週、発足した。「民事刑事を問わず、法的な紛争の解決に必要な情報やサービスをあまねく国民に提供する窓口」を目指し、地方裁判所がある50都市に地方事務所を置き、東京にコールセンターを設け、全国からの相談電話をたらい回しにならぬようさばく計画だ。

▼『霧の旗』で清張が描いたほどでなくても、今でも司法は普通の人が近づくには敷居が高い。その敷居を低くするのが法テラスの旗印だが、それが霧のごとく消えてしまわないよう、10月の業務開始に向け、支援センターを支える法曹界や各地の自治体は、準備をしっかり固めてもらいたい。

●村上春樹がカフカ賞受賞というニュースは、ネットで見る限り日経を除く全国紙四紙(読売・朝日・毎日・産経)の中で産経のみが熱心に扱っており、今朝のコラム「産経抄」にも取り上げられていた

ハルキの作品でカフカといえば、そのものズバリ「海辺のカフカ」である
コラム子も、この作品に「現実と非現実とが交錯する」世界を見、「作品そのものにカフカが息づいている」としている


●かつて「海辺のカフカ」の公式HPがあったが、いまは閉鎖されている(その内容は「少年カフカ」にまとめられている)
しかし、ネットを調べるうちに「海辺のカフカ」の世界そのものを探求している「サロン・ド・カフカ」という素晴らしいHPを見つけた
http://homepage2.nifty.com/NASCI/kafka/salondekafka.htm


管理人のNASCI氏は、「海辺のカフカ」の世界を「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の続編としてとらえ、「境界」という概念をキーワードに、自己と世界の関係や、世界を包みこむ壁の存在などについて考察を進めている
これかからも時々お邪魔して、ハルキワールドを堪能させてもらうつもりだ


●(以下引用)………………………………………………………………

産経抄(2006年3月26日)
 作家、フランツ・カフカは一九二四年六月三日、四十歳で亡くなった。だが池内紀氏の『カフカのかなたへ』によれば「生前のカフカに世界はあまり親切でなかったように、死者に対してもそうだった」。作品も死もほとんど注目されなかったのである。
 ▼しかし、八十年余りの歳月はカフカの評価と名声を高める。五年前、母国チェコに国際的な文学賞「フランツ・カフカ賞」が創設された。歴史は古くないが、一昨年、昨年と、受賞者がその年のノーベル文学賞に輝いた。今や最も著名な文学賞のひとつとなった。 ▼その「フランツ・カフカ賞」の今年の受賞者に村上春樹氏(57)が選ばれたことには、どこか宿命的なものを感じる。村上氏の長編小説「海辺のカフカ」は、現実と非現実とが交錯する。題名もさることながら作品そのものにカフカが息づいているように思えてならない。
 ▼それだけではない。「団塊の世代」がまだ二十歳前後だった昭和四十年代、日本でもカフカを読むことが流行のようになった。『城』『審判』『変身』などをむさぼるように読み、カフカの故郷、プラハへの思いを募らせた人も多かったはずである。
 ▼むろん、当時の文学青年たちが、あの難解な小説をどれだけ理解できていたのかはわからない。ただ、カフカを読むことで知的に刺激し合い、競い合っていたことは間違いないのだろう。そうした「カフカ世代」を代表する作家が、村上氏であるような気がするのだ。
 ▼それはそうと、「フランツ・カフカ賞」の過去二年の「実績」から、村上氏にもノーベル賞の期待が高まっているという。そうなると、カフカへの関心も再び強まるかもしれない。知的な「たけくらべ」がよみがえってくれればいいのだが。

リアルワールド 一気に読んだ
母親殺しを犯したミミズと彼に関わった四人の少女たち
物語はミミズと四人の少女たちそれぞれの視点で描いていくという、おなじみのキリノ独特の手法で進む

●ミミズの逃走劇、そこに少女たちがケータイというツールを通じ、時間を追いながら関わっていくことでスピード感が生まれ、より危うい展開を見せていく


特にミミズと行動を共にしたキラリンが、ついにはタクシー強盗の片割れとなり、事故で自滅していく場面はショッキングだった


彼女たちにとって「ケータイ」が自分の「生」を認識する日常のツールとするならば、「死」こそは自分の「生」を実感する最後のツールだったのではないか


キラリンの「死」の瞬間の「空を飛ぶ。爽快爽快」という独語ともつかない描写には、人生を「生」の一刹那として突っ走った少女の皮肉な充実感がある


●この作品で後半の大きなヤマ場となるのは、テラウチの自殺である
彼女はミミズの母親殺しを、わかりやすい「取り返しの付くこと」として批判し、軽蔑している


テラウチにとって「取り返しの付かないこと」は、「永久に終わらなくてずっと心の中に滞って、そのうち心が食べ尽くされてしまう恐ろしいこと」なのだ

それは浮気して罪深き母親を、愛するがゆえに許し、憎みながらも母親に「屈服」したことでもある


ミミズは実際に母親を殺したことで、ひとつの解決をみたが、テラウチはこれまで心の中で何度も母親を殺してきただけで、解決されないまま、心の中に鬱屈していたのだ


ミミズの母親殺しは、この作品のとっかかりに過ぎない
キラリンの壮絶な死、そしてテラウチの内省的な死、それらこそ、彼女たちのリアルワールドであり、「死」の中にしかリアルワールドを見つけられない、少女たちの歪んだ心がある

この数日更新できなかったが、この間、うれしいニュースがあった

●まず村上春樹カフカ賞受賞が決定したこと
23日の共同電で伝えており、ネットのサンケイと毎日で確認できた
10月30日にプラハで授賞式があるという
http://www.sankei.co.jp/news/060323/bun061.htm


ただ、この賞が「民族文化の重要性を喚起することなどに貢献した作家」に贈られるということと、地元紙がハルキの代表作として「ノルウェイの森」「国境の南、太陽の西」「海辺のカフカ」を挙げ、約20カ国語に翻訳されて世界でミリオンセラーとなっていると紹介した、とあるだけで、明確な受賞理由が伝えられていない


カフカが描いた異次元世界と、ハルキの描くファンタジー色の強い非日常世界に共通点があるということだろうか
ハルキは、カフカほどに不安とか不条理とかを感じさせないが、「死」に関しては独特の世界観を持っているように思える
かつて、安部公房が一時代を築いた時、カフカとの共通性が話題になったことを思い出す


太宰治の「富嶽百景」が映画化され、近く公開予定という
まっさきに思ったのは、あの作品世界がどのように映画化されるのかということだ


ストーリーそのものに、とりたててドラマティックが展開があるわけでない
原作では、作家活動に専念できなかった孤高の太宰が、富士山が見える宿「天下茶屋」での人々の交流を通じて次第に自信を取り戻していく過程が淡々と描かれている


おそらく映画の方は、女将さんやそこの娘さん、井伏鱒二が紹介したお見合い相手の美知子ら、太宰と女性を巡る物語が軸となるのだろうと思う
背景に富士の大自然が描かれれば、原作が持つある種の爽やかさが出せるのではないだろうか


楽しみではある


富嶽百景公式サイト↓
http://www.kaerucafe.co.jp/fugakuhyakkei/index.html
Gyao特集ページ↓
http://www.gyao.jp/cinema/fugaku/

ラジオ記者、走る ●学生時代、在京のあるラジオ局の報道部で、報道助手のアルバイトをしていた
勤務は夕方から翌日朝まで、泊まりの社員の記者と共に夜の定時ニュースや突発ニュースの編集の補助をするのが仕事だった

ある夜、仕事が一段落した時、記者のAさんがこんな事を話してくれた
何かの取材で下町のお年寄りのところに行ったところ、「あれ、テレビカメラは来ていないの」と言われたという

「いや、まいったよ」と苦笑いしていたAさんの顔が今でも思い浮かぶ


昨日、この本を本屋で見た時、二十数年前のAさんの話を思い出して思わず衝動買いし、一気に読んでしまった(新潮新書・3月20日発行の新刊)


●ラジオは、著者が書いている通り「音声だけのメディア」である
映像もなければ大掛かりな舞台や仕掛けもない」シンプルメディアだ


さらに「算が乏しく、社員の数も少ない」から何でも一人でこなさなくてはならない
著者が自嘲気味に嘆いているようにテレビや新聞を大企業とするなら「中小企業か零細企業」といっていい


しかし、だからこそ大企業のメディアのように細分化、専門化されることなく、一人の記者にはオールラウンドプレーヤーとしての「やりがい」がある


●文化放送で報道畑を歩いた著者は、永田町の番記者たちの露骨な「差別」を受けながらも政治家に密着取材、イラクの戦争取材に行った時や雲仙普賢岳の大噴火の時なども、組織のバックアップもなく、時に生命の危険にさらされもした
さらには、アメリカで上院議員に立候補したヒラリー夫人の陣営に入り込むという「裏ワザ」で、独自の「ゲリラ取材」を行ったりもした


そこにあるのはラジオというメディアに対する限りない愛着である
彼は「時代の動きを分かりやすく伝えることが自分の天職」という
この本の帯にあるキャッチフレーズに「武器はマイクと心意気」とあるのもうなずける


あの時、「あれ、テレビカメラはきていないの」と言われたAさんは、その後、そのラジオ局の重役になっている
おそらくあの言葉に発奮したであろうAさんにもまた、同じ心意気があったに違いない

今朝の毎日新聞コラムは兵庫県のホームレス殺人を扱っている
一読して魂が震える思いがした

昔の人々は「世間からはみ出した人に聖なるものを感じ取った
貧しい放浪の旅人が神や仏の化身であったという説話」は、心から心への伝承としてあったはずだと思う


しかし、今回の高校生らはそうした「見えないものへのおそれ」をまったく持っていない


コラム子は、現代の人間に「聖なるもの」を見る能力が消えかかっていることを的確に指摘している


私は、このコラムを襟を正して何度も読み直した
久しぶりに、心動かされる文章にめぐり合った


※前回の柳田國男の話で指摘した吉増剛造が石の祠を開けて蝋石の球を取り出したことについて、私は吉増が「見えないものへのおそれ」を失っていないことを信じたい

彼は、人間の持つ感性を最も大切にすべき詩人なのだから…


●(以下引用)………………………………………………………………

毎日新聞「余録」
 貧しい者、虐げられた者ほど神様に愛され、天国に近いという宗教的ビジョンが人々の心を打つのは、何も弱い立場の人々への同情や慰めのせいだけではあるまい。誰の心にもこの世の富貴や権力では左右できない魂の救いへの渇望とおそれはひそんでいる▲富と力によって支配される俗世から隠遁(いんとん)する人、世間のしがらみを逃れて放浪する人、昔の人々がそのように世間からはみ出した人に聖なるものを感じ取ったのも似たような心の働きだろう。だから貧しい放浪の旅人が神や仏の化身であったという説話が生まれるのは、洋の東西を問わない▲ではそんな目に見えないものへのおそれはどこへいったのだろう。兵庫県で足の不自由な男性が野宿をしているところに火炎瓶を投げつけられて焼死した事件で、高校生ら少年4人が逮捕された。繰り返される少年による路上生活者らへの襲撃だが、胸のふさがるようなむごさである▲4人は以前から路上生活する人々に「お前、臭い」などとののしりの言葉を浴びせたり、花火を発射するなどのいやがらせをしていた。「むかつくので火炎瓶を投げた」というのが少年らの供述という。悲しいが、人の苦しみに思いをめぐらす心の回路はまったく閉ざされていた▲弱い立場の人々にしつようないじめ、いやがらせを加え、あまつさえ生きた人を焼き殺すような残忍さ、悪意は、どうして少年たちの心に巣くったのか。そのいきさつは、この少年たち個別の問題としてきちんと解き明かしていかねばならない▲昔の人々に放浪の旅人を聖者や神の化身と感じさせたのは、人々の内にひそむ聖なるものの力というべきだろう。富や力が左右する世界しか見えない心の貧血は、少年たちだけの問題ではなさそうである。(毎日新聞 2006年3月18日 0時11分)

柳田國男 14日夜放送の第2回をビデオで録って見た

●今回は柳田國男の第二の故郷である茨城の府川
柳田は12歳の時から3年間、開業医の長兄を頼ってここで過ごした


柳田は身体が弱かったため、長兄が寄宿する小川家の土蔵で読書に明け暮れたという

このころ、柳田が「故郷七十年」に書いている有名な神秘体験をする


土蔵の隣にある小さな石の祠を空け、小川家の亡くなったおばあさんが生前大事にしていた蝋石の珠を「そうっと覗いた」

すると何ともいえない妙な気持ちになり、空を見上げると昼間にもかかわらず、数十の星が見えた

その時、突然高い空でヒヨドリがピーッと鳴き、柳田は我に返った、というものだ


小林秀雄は柳田にこうした感受性があったからこそ柳田は民俗学の大家になったと高く評価した


吉増剛造もヒヨドリが鳴いたことについて、これは「別世界からの何か暗示」であり、「野鳥雑記」や「遠野物語」の例を挙げて、柳田の世界に動物が出てきたときは要注意と語っている
(吉増も触れている、小林がこのことを語った講演「信じることと考えること」のテープについては、あらためて)


●府川は利根川沿いにあり、柳田は「故郷七十年」の「大利根の白帆」という文章で、何百という船の白帆が通るのを見て「本当に新しい発見であった」と感動したことを書いている


吉増も柳田の眼の届くところに利根川の白帆があったことが柳田にとって大変よかったという趣旨のことを語っている


こうした身体の延長で起こる大事な事がその人にとって重い意味があり、柳田にしてもまた折口信夫や南方熊楠にしてもそれぞれがこうした「自分の庭」を持っていたという


柳田にとってこの「大利根の白帆」の驚きが、海上交通や風の研究、さらに漂流物などに対する関心を深め、やがて晩年の大作「海上の道」につながっていったと指摘、あらためて柳田の感受性の豊かさ、未知の世界への志向に驚く


※柳田國男の写真は下記サイトより引用

http://www.kanko.chuo.chiba.jp/kanko/Shousai.do?sid=3947&k=2&t=2


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●ところで吉増は、今は記念公苑となっている小川家を訪ねているが、石の祠でその扉を開け、何とあの蝋石の珠を取り出し、手に取って見ているのだ


蝋石の珠はこの祠に祀られたものであり、いわば御神体である
「許可を得て撮影しています」というテロップが流れたが、いくらなんでもこれはやりすぎであろう


柳田でさえ、「故郷七十年」の中で、自分が「いたづらだった」子供の頃のことであると断り、「人に見つかれば叱られるので、誰もいない時恐る恐るあけて」から「そうっと覗いた」と書き、手に触れてさえいない


吉増は珠を手にしながら空を見上げ、「柳田さんはこの空に星を見たのですね」などと語っていたが、なにか即物的で神秘性のかけらも感じなかった

柳田には見えた空の星も、吉増には見えなかっただろう


おそらく柳田は自分はそこまでしなかったぞと怒るだろうし、小林秀雄もあきれ返るに違いない

吉増の詩的感性は尊敬するし、このシリーズも見ていきたいが、いささか幻滅してしまった


残念である